イタリアのプロサッカーリーグで活躍している長友選手が、
試合前に般若心経を心の中で唱えていることを知り、
同じく「般若心経」を心の拠りどころとさせていただいている拙者も
ひとつ話しをさせていただきます。
『般若心経』の場面設定は、仏さまがお釈迦さまの弟子の中でも一番の知恵者である
舎利という弟子に「般若波羅蜜多(彼岸に渡るための智慧)」について、
説き聞かせる体裁をとっています。
わずか二百六十文字の中に智慧で得られる「空」の哲学を封じ込め、
最後に理屈を超えてダイレクトに悟りの世界に飛び込む真言(呪文)が
紹介されています。
そんな『般若心経』のなかで最近、気になっているフレーズは
「無智亦無得以無所得故(むちやくむとくいむしょとくこ)」。
「智も無く、また得も無し。得る所無きが故に」と書き下される部分です。
何かを得たとする自分自身が空なる存在であり実体はないのだから、
自分自身には智慧も無く、また得るということも無い。
そんなことにこだわらなくなる智慧が「般若波羅蜜多」であるという意味だそうです。
何かを得たのが終着点ではなく、それが始まりであり毎日が良い変化への
スタートラインであるとする考え方。そこから次の一歩が始まるのでしょう。
仕事の場面でも、智慧を出せ経験を活かせと毎日を必死に過ごすことから得られる
ものではなく、ふとしたときに見せる笑顔の中に本当の智慧があったりする。
小生、そんな達観した気持ちになれるには、まだまだ遠い道のりです。